地域の概要

地域の概要

 富岡市立北中学校のある小野地区は、富岡市の北東部に起伏する富岡丘陵にあり、東経138°55' 35" 北緯36°17' 8" に位置している。丘陵の東部は高崎市吉井町の上奥平・下奥平を経て高崎市街地へ連なり、北部は安中市の岩野谷台地、西部は同じ安中市の横野台地と接している。また、南部は鏑川を隔て甘楽町と対し、南西部が鏑川段丘陵に展開する富岡市街地へ接続している。
 以前の小野地区は、第1次産業に従事する人が約3分の1で、農業がほとんであり、こんにゃく、葱など野菜栽培に従事する人が多かった。しかし、現在は、畑がソーラーパネルになり様子が変わってきた。また、学校近くには新たに特別養護老人ホームができ、以前からある老人保健施設を含めると施設が3箇所になった。専業から兼業の農家が増え、近接の高崎市や安中市、富岡市街で働く人が増えている。
 また、この地域は、高崎や安中に向かう道路が通っているため、迂回の道として学校脇の道路が通勤に利用され、交通量が多くなり田園風景も変わりつつある。富岡市内では、一番北にあり、山で市街地と隔絶されているため人口も減少傾向にある。世帯数は横ばいであるが、子供の数は減少傾向にある。
 小野地区の北部及び南部から流れ、ほぼ中央部で合流する二つの川、藤木川と星川の河岸上には、主要地方道高崎富岡線が走り、富岡方面と安中・高崎方面とを結んでいる。小野の丘陵には、今から4,000年以上も昔の原始の時代から人々が居住していたことがその遺物の分布から推察される。縄文時代の人々が使用したと思われる石器や土器片が点々と散在している。また、弥生時代の土器片が中学校周辺から散見できることから、人々の生活が狩猟・採集の生活から農耕生活に移り変わっていき、居住地域が丘陵から河岸段丘へと移動していくこともわかる。4~8世紀、群馬県には大きな古墳が造られているが、小野地区においても4基の古墳があったことが確認されている。いずれも過去のある時期に破壊されており、遺物も古墳の形状もほとんど残っていない。しかし、小野地区にも古墳に埋葬された豪族を中心とする社会が形成されていたことは確かである。奈良時代や平安時代の具体的歴史資料はこの地区には残されていないが、伝説として、長学寺には奈良時代に道鏡が関東を巡回した際、高尾に天平庵という庵を立てたことや、平安時代に小野小町がこの地で薬師如来に祈って難病を癒したという話が残っている。下高尾にある仁治の碑は、仁治4年の年号が見えることから、鎌倉時代の初期に建立されたものであることがわかる。江戸時代に入ると、小野地区のすべてが七日市藩の領地となり、この状態が明治の廃藩置県の時まで続いたようである。明治11年に太政官布告にもとづいて、明治12年に北甘楽郡役所が富岡に置かれた。これをもとに、藤木村や白岩村など現在の大字にあたる九つの村と坂口村が、合同の戸長役場を置いた。これが旧小野村の前身である。今から1,000年以上も前に、この地に付けられた「小野」という地名が、歴史の変遷の中で正式な行政区名として再び甦ったわけである。


小野小町に関する伝説(前節の概要)

 小野小町が、長谷観音のお告げに従い、宮仕えをやめて故郷に帰るときのことであ った。中仙道を下り、鏑川の流れる小幡谷と言うところに来て、病におそわれた。そ れは不治の病とも言われる難病であった。小町は、その病を癒すために、鏑川の近く に小町山普済寺と称する庵を建て、仏道修行にはげんだ(これが現在の得成寺のおこりである)。また、快癒祈願のため、川辺に薬師堂をたて(これが現在の薬師である)。日々、この薬師堂にもうでては、仏助を請うていた。
 しかし、いっこうに病は癒えぬ小町は、ある日薬師に次の歌を献上した。『南無薬師、まずは諸願のかなわずば、身より仏の名こそ惜しけれ』すると、その夜、小町の枕元に立った薬師如来が、次の歌を授けた。『むらさめは、たヾ一時のものぞかし、おのが身のかさここにぬぎおけ』かくして、小町の病はいえ、故郷に向かって再び旅立っていったのである。
 また、小町が薬師に祈願する際、塩若干俵を寄進したので、今も薬師堂の裏には、塩の井戸というものがあり、塩分のある水が湧き出している。人々は、諸病に効きありとしてこの水を汲んでいるのである。後賀にある、小町の化粧井というのは、小町が水鏡として使った井戸であって、常に水が清らかであり、また、水がかれることがない。(甘楽郡史による)